おかえり

2012年にスタートしたシェアハウス香椎。8年目を迎えています。

初期のメンバーの一人であるダニエレ(スイス在住 2012年から2年間滞在)が来日。

昨日、シェアハウス香椎にやってきました。

「おっ、ダニエレ。ひさしぶり。」

「ただいま。」

「おかえり。」

昨日は新しいメンバーの歓迎パーティ。皆でおでんを食べながら楽しく過ごしました。

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」

「おかえり」

「ただいま」

日本中の家庭で、シェアハウス香椎で、あたりまえに使っている言葉ですが、そこには温もりがあることを再認識しました。

おかえり

兄と中国と天安門事件

天安門事件の話をしていたら「お兄さんのことをもっと知りたい」とウィニーに言われ、20年前に書いた文章をひっぱり出して送ることにしました。この文章、当時熊本日日新聞にも掲載されました。

兄の葬式を終えて                      1997年9月19日

1997年9月13日午後11時35分、兄、豊が亡くなった。46歳だった。末期がんと言われ、胃を切り取る手術をして10カ月後のことだった。

幸せな死に方だったと思う。熊本県天草市本渡の46年前に生まれた家の同じ座敷で、両親と中国籍の妻と幼い娘たちに見守られながら、静かに息を引き取った。

兄が最後に妻宋文に言った言葉は、「空がとてもきれいだねぇ。」だった。

私と兄とは11カ月違いの兄弟だった。小さい頃から一緒によく遊び、子供の頃は「双子かい?」とよく言われた。やさしい男だった。私の耳の掃除をよくしてくれた。けんかをした記憶がほとんどない。同じ高校を卒業し、共に浪人をし、東京の別の私学に進んだ。

その頃から兄はずいぶんと人生に悩んでいた。私は新聞販売店に住み込んでいたが、兄はアルバイトもさほどせず、大学の授業にも出ず、私から見ると妙な友人たちと付き合っていた。仕送りはすぐに使ってしまい、よく私の給料日に「昨日から何も食べていない」と電話をかけてきた。東京杉並区阿佐ヶ谷の三畳の兄のおんぼろアパートの部屋には、せんべい布団とほんの少しの衣類と食器があるだけ、他には何もなかった。

二人で駅前の食堂に行き、280円の定食を食べ、それから決まって喫茶店にいってコーヒーを飲んだ。久しぶりのたばこをおいしそうに吸っていた。「きっと返すから」と言われて、私はいくらかのお金を何度となく渡した。

結局、兄は大学を二年で中退し、福岡に戻っていった。兄はいくつかのアルバイトを経て、運送会社に勤めることになった。私は卒業して就職をし、やがて結婚した。自分の生活で忙しく、兄をゆっくりと話す機会はだんだんとなくなっていった。

「中国へ行きたい」と兄が言い出したという話を母から聞いたのはいつ頃だっただろうか。働きながら中国語の勉強を始め、日本語教師養成学校に通い始めた。だが決して順調なスタートではなかった。吉林大学の日本語教師の話があり、中国へ行き受験したのだが見事に失敗。それでも兄は日本に戻らず、北京の安宿に住みながら一人で生活を始めた。

そこは世界中から旅する若者たちが集まる所だった。そこで、英語も覚え、中国語も上達したという。この時の経験がその後の活動に役に立った、といつか私に話してくれた。

それから11年。兄は北京にいたのだが、中国での兄の動きは、私には断片的にしか伝わってこなかった。

中国での兄の様子をあらためて詳しく知ることになったのは通夜の夜のことだった。

日中の登山協会を中心に組織している「国際交流協会」の日本側の代表的存在である倉智清司氏は、福岡から4時間もかかる本渡の我が家に、私よりも早く到着していた。兄の棺の前で焼酎を飲みながら、私は兄の中国での様子を彼に聞いた。倉智氏はこころよく明け方まで私のインタビューに付き合ってくれた。

「北京のここ10年の大きな変化を肌で感じてきたのが有馬です。私は彼にしか書けないことがあるからそれを書き残すようにと何度も言っていました。通信を発行し始めましたが、途中で途切れたのが残念です」そう倉智氏は語っていた。

倉智氏は「国際交流協会」の代表の吉田興和氏(京都在住、元毎日新聞の中国特派員で文化大革命当時、紅衛兵に捕らえられ、北京で獄中生活をした経験がある)に電話してくれた。吉田氏は兄のために弔文を書いてくれることになった。その弔文がファックスで送られてきたのは葬式の朝の5時過ぎだった。

ワープロ文字の最後には、手書きで次のように書かれていた。

「一行書いては思い出し、二行書いてはため息をつき、それで5時まで、酒を飲んでは一行書き、、、。最後にファイルに記憶させようとしたら、コードは有馬豊となっています。このフロッピーディスクが有馬の思い出とするにはあまりにも、悲しい。」

吉田氏から見た兄の姿だが、夜を徹して書いてくれた弔文の全文を紹介させていただくことにする。

有馬に告げたい

豊くん。君が倉智に紹介され、1人で私のもとにやってきたのは1986年の夏でした。君は一念発起して、人生の残り50年を日中友好の架け橋になると言う、、、。

当時の中国は近代化の波に乗らんとする、すべてが実験段階の過渡期にありました。私が中国に派遣する人材のすべてが大学に籍を置く研究者で、その人たちも立派な友好の使者ではありましたが、最も豊かな人生の円熟期を、みずから日中友好のいしずえに置く意志を告げたのは君が最初でした。

飲まず食わずでもいい、雨露さえしのげれば生きていける。私は中国に役立ちたいのだ、と涙を浮かべて私に訴えました。当時の常識から言えば無謀とも思えるものでしたが、中国に骨を埋める情熱はひしひしと感じられ、九州男児らしい燃えるような一本気と、先輩を立て年長者を敬う育ちの良さに好感をもったものでした。

覚えていますか。その日は、風一つない、うだるような蒸し暑さで、君を連れだって近所の飲み屋で生ビールを何杯も重ねたことを。君は、泊まっていけ、というのを固辞して、大阪の弟のところに帰っていきました。

その一か月後は君は北京におりました。中国登山協会のコネで一泊5元の安宿に住まい。君は毎日楽しそうに北京の裏通りを探索しておりました。栄養補給は世界的な登山家で、チョモランマの北ルートの初登頂の隊長である史占春宅でした。史占春は中国登山協会の主席で古武士たる硬派でしたが、旧満州の日本人学校で教育を受けた人であるだけに、君の律義さと長幼の序をわきまえた育ちのよさに、昔の日本人のよさを再認識したようでした。

1986年10月、私は倉智と共に新しい登山計画のために中国登山協会を訪ねました。史占春はしみじみ私に言いました。「ずっと満州に住んでいた民間人はみな良い人たちだった。彼らは熱い血を持っていたアジア人だった。有馬豊は日本人らしさを持ったアジア人だ。私は彼を気に入ったから、自分の甥のようにかわいがる」と。

君の人柄は中国登山協会の全員に愛され、とりわけ「パンダ」と私がニックネームをつけた陳尚仁は親戚として君を扱いました。中国登山協会だけでなく、私が紹介した人たちは等しく君を評価しています。

当時の中国は夜になると全ての店が閉まりました。もちろん町には今のような飲み屋やカラオケはありませんでしたから、訪中のたびに今は范曄の総領事をしている大和慈男公邸におしかけ、中国登山協会の連中と、日本から持ち込んだ酒やかまぼこで、カラオケやダンスで二次会をしました。ぐでんぐでんに酔っぱらった私をパンダとともにホテルに送り届ける毎日でしたが、決して君は私のホテルに泊まることなく、自分の宿舎に帰っていきました。

翌朝には君のノックで起こされました。朝食のためにレストランに行き、「有馬、お前も何か食べれば、」と言うと、君は必ず「私は食ってきましたから、」と答えるのです。「1人で食っても味気ないので付き合え」と言いますと、「それでは、」と言いつつも、結局は「うまい。うまい」と私以上に食うのでした。

君の謙虚さは以後10年続き、最後のおねだりは去年の11月でした。私は君に電話でこう言いました。「京都大学が11月5日から梅里雪山峰に行くから、倉智にうまい酒をたっぷり持って行かせる。斎藤院長の公式挨拶を通訳するように」と。君は「厚かましいお願いですが、その中に九州の焼酎を入れていただけないでしょうか。九州人は焼酎がよかです」と言うのでした。

11月5日、君は体調を崩して点滴を打ちました。その日は通訳として働いてくれることはできなかったのですが、翌日には無理をして手伝ってくれました。その日、君は隠れて嘔吐していたのを斎藤と倉智は知っていました。斎藤は日本山岳会の会長で、世界的な登山家と知られた人ばかりでなく、外科医としても名だたる男です。その夜、国際電話で私に知らせてきました。「俺は40年の外科医の経験から、あの嘔吐の状態から判断すると、有馬君は十二指腸潰瘍の疑いがある。同じ熊本県人として、このままヒマラヤに赴くのは慙愧に耐えないが、有馬君のことをくれぐれもお願いする」と。

斎藤と倉智やベースキャンプから人工衛星を使ってたびたび電話をし、その都度君のことを心配しておりました。君はこの登山隊には教え子を通訳として派遣していたのですが、「僕は、有馬先生の命令でヒマラヤに来ている」と誰よりも早く起きて薪を拾い、隊員が起床した時には赤々と焚火を起こしているというものでした。このように君は多くの学生から慕われ私淑されていたのは、君自身が常に態度に示していたからであり、これぞ、まさしく生きた教育そのものでありました。

こんなことも君の九州人らしい熱血漢を示すものです。

1988年夏、君は一時帰国して博多におりました。私も所用で博多に来ており、倉智と三人で博多を飲み歩いておりました。地下街を酔っぱらって歩いているとき、博多の“お兄ちゃん”が私に因縁をつけてきました。そのとき、私が相手に何もリアクションをしていない間に「きさん。大事な人になんばしよっとか」と殴りかかっていくのです。

1992年秋、日中国交回復20周年記念の国家事業として、私は歌手の岡林信康を派遣して「日中文化の祭典」を致しました。初日の講演終了後に、小笠原理事長と岡林一行とで食事をするべく君に手配を頼みました。公演が終わって楽屋で待てどくらせど君はやってきませんでした。一時間ほど待った末、腹を空かせて私と小笠原はとことことホテルに向かい、帰りの玉府井の横道でシシカバブを20本ほど買い、閉まりかけのレストランで缶ビールを買って、スモッグに満ちた街を飲み食いしながら帰りました。

翌朝君がおずおずと私を訪ねて言うのには 「私の生徒もVIPの席にいれようとしたのに警官が “一般人中国人は立ち入り禁止” と生徒を小突くので、思わず、“俺の生徒に何をするか”と殴ってしまった。それで、警察に泊められたのです。」と言うのでした。

1989年6月、天安門の悲劇がおこりました。私は君に、大使館の勧告にしたがって帰国するように電話をしました。君は「生徒が参加しているようなので帰国することはできない」と言い切りました。君が私に逆らったのは11年間に二度だけで、そのいずれもが生徒を愛する気高い教育者精神でした。私はこの時「おれが有馬に教えることは何もなくなった」と、心配しつつも、しみじみうれしく思うのでした。

君ほどの好漢ですから、何度か中国で恋愛をしました。そのいずれの人も君は私の訪中の度に引き合わせましたが、君の亭主関白に沿うだけの質素で家庭的な人でありませんでした。1990年暮れ。君は小柄な化粧っ気のない白い美しい肌を持ち、目の輝く女性を伴って私の部屋を訪ねました。伏し目がちで控えめな女性でしたが、質問にはテキパキと答える頭の良さが印象的でした。

翌日君に「合格」と太鼓判を押しました。それが23歳の時の宋文で、私が彼女と最初に出会ったは北京前門飯店311号室スイートルーム。これは中国登山協会が1979年より私に提供してっくれていた部屋でした。

翌年の1991年春。私は倉智を伴って中国登山協会を訪ねました。有馬は宋文を連れて部屋を訪れ、私と倉智に、結婚することにした、という。夜も遅くなったので、倉智は君に「彼女を送り届けてからまた飲み直そう」と言ったら、「いいえ。タクシーに乗せたら、すぐに戻ってきます」と答えた。倉智は宿舎に帰る宋文をロビーまで送っていき、1人で部屋に戻ってきました。私が「有馬は?」と聞きますと、「僕が、北京の路上はまだ夜は凍っているか? と有馬に聞きますと、有馬のやつ、お腹に子供がいるから滑らないよう気をつけろ、と言っているんです」と答えるのです。「あいつ、事後報告ですよ。事後報告。それで、部屋まで送り届けろ、と言って一緒に帰しました」と倉智は言うのでした。

その日は、ほとんど明け方まで、倉智と一緒に “出産祝い” をしたのを君は知らないでしょう。私も倉智も、何かの理由をつけて酒を飲むのですが、この時のすがすがしい酒の味は今も強く胃袋が覚えています。この時、宋文のお腹の中にいたのが、かわいい “晶”で君の意志を継いで見事な “日中友好二世” に育っております。

有馬。君は本来なら、倉智らと一緒に私の最後を看取るのが弟子としての勤めでした。順序を間違えて先に逝った君に対して、私は血を吐くような声で有馬の名前を呼ぼうとは思わない。短い人生ではあったけれど、君は存分に青春を楽しみ、目的を達して多くの学生を育ててきました。男として、君の人生は有意義であったし、あっぱれであったし、充実したものでした。

君が存分に人生を充実できたのは、両親、兄弟、そして誰よりも宋文と、晶、宮の二人の子供たちだったでしょう。宋文。二人の子供たちを立派に育ててください。晶、宮、病気をせずにじょうぶに育ち、おじいちゃん、おばあちゃん、お母さんを励ます真珠になってください。

最後に、豊くん。君はヒマラヤよりはるか高い空の国に、私の先遣隊として先に行ってくれたのですね。向こうについたら、明るい声で情報を送ってください。

1997年9月15日

君の永遠の友、老吉田

追悼の鐘こそ鳴らないけれど、御参席の皆様の心の鐘に応えて、北京の学校で黙祷の追悼式が行われます。私も午後二時、西に向かって黙祷をささげます。   合掌

中国登山協会の主席、ソ・ショクセイ氏をはじめ役員全員の自筆の署名を集めた弔文も届き、吉田氏のおかげで縁があった、清朝最後の皇帝、アイシンカクラ・フギの甥で書家のアイシンカクラ・イクセン氏からも見事な筆致の中国語の弔文が送られてきた。

福岡で高校の教師をしている高向洋人氏は、兄が日本に送ってきた中国人留学生の面倒をみてくれている人だ。その高向氏は次のような弔文を送ってきた。

留学生はみんな言います。「有馬先生はお酒の好きな人、親切な人、やさしい人、よく面倒を見てくれる人」。私も微力ながら、あなたの事業を受け継ぎます。

酒が好きで、たばことコーヒーが好きで、人の世話が好きな男だった。お金が入ればいつも自分の教え子たちや友人を集めておごってやっていたそうだ。「北京経済幹部学院」の日本語教師をして多くの学生を日本に留学させた。教え子の中には大学を卒業し日本の会社に就職している者、北京に戻って実業家になった者もいる。何度か兄は日本に帰ってきたが、福岡空港の到着ロビーにはいつもたくさんの留学生が出迎えに来て、私たちが兄と話もできないくらいだった。

お金にも名誉も地位もまったく縁がなく、何の財産も残さなかったが、人と人とのつながりを大切にして多くの友人をつくり、若い中国籍の妻と6歳と1歳の娘を残して兄は逝った。

葬式がはじまり、読経のあと、倉智氏には吉田氏の弔文を朗々と読み上げていただいた。参列してくれた中国人留学生にも兄への想いを語ってもらった。

出棺をし火葬を終え兄の骨を仏壇に納めたのは夜の7時過ぎだった。遠来の弔い客や久しぶりに会う親戚やいとこたちとその日は夜遅くまで語り合うことになった。

「元気になって、また北京に戻る」と兄は言い、「一緒にまたゆっくり飲もう」と私も言っていたのだが、昔のようにゆっくりと話す機会のないまま逝ってしまった。今度兄とゆっくり話すことができるのは、私があの世に行ったときだろうか。

でも、何だか今、兄はまた北京に戻って行ったような気がしている。